コラム

マグリット『イメージの裏切り』について

以下の文章は、ある美術雑誌に掲載する予定であったものである。担当編集者の退職により企画は頓挫したが、原稿は完成していたので、タイトルのみ変更したものを、ここに掲載する。

考えがその先へなめらかに進行しなくなると、私は公園を散歩したり、青空を、白い雲を眺めたり、また、ルネ・マグリットの画集をぱらぱら、めくってみたりします。すると考えのドアが別な方向へ開かれ、マグリットの青空に浮かんで、雲の合間を散歩しているような開放された空間での自由な考えが展開するのです。マグリット『イメージの裏切り』を初めて眼にしたとき、悪い冗談ではと思ったものですが、歳月を経て、この絵に再会したとき、これはいわゆる絵ではないのではないか、という気がしてきました。絵として鑑賞する以上の何かを考えさせるものが、この絵にはあるのではないかと。

パイプのリアルな描写を静物画として鑑賞することは、画家により明確に拒否されています。

シュルレアリスムに先んじ、「ダダは何も意味しない」という言葉に代表されるダダイズムが行ったのは、既存の芸術秩序の否定、破壊でした。創始者、トリスタン・ツァラは、「秩序=無秩序、私=非私、肯定=否定」という等式を編み出し、ヨーロッパ近代型の二項対立に揺さぶりをかけました。この否定、破壊の精神を継承したシュルレアリスム。その代表的な画家の一人、マグリットも創作の基本に否定、破壊の精神を受け継いでいます。

静物画であることを否定し、さらに伝統的な鑑賞の対象としての絵画という意味も否定するとしたら(この方向の究極は、「これは絵画ではない。」に行き着くにちがいありません)、「これはパイプではない。」とは何なのでしょうか?「これはパイプではない。」と記すとき、それは単なる否定でしょうか。否定したとき、「これ」は消えてなくなるでしょうか。いや、パイプではない「何か」が立ち現れるのではないでしょうか。私たちが漠然と、これはパイプの絵だと納得しようとしたとき、マグリットは拒否します。では、鑑賞する側は「パイプでないなら、これは何なのだ?」と問うしかないではないでしょうか。

ミシェル・フーコーはその著作『これはパイプではない』において、マグリットの戦略を、画像と言語の同時使用を同質性のないものとして併置することで不安定さを生み出す効果を狙ったのではと論じています。「これはパイプではない」の一文によってパイプはその地位に安住することができず、放り出されるのです。マグリットは自らの絵にあえて一言添えることで、絵と対象との類似性を否定し、鑑賞者の思考を流動化させているのです。

否定は、否定語を使わなくても可能です。マルセル・デュシャンの『泉』を思い起こしてみてください。彼は便器、量産されたレディ・メイド(既製品)のトイレタリー商品に『泉』と名付け、これを芸術品として出品しようとしました。デュシャンはこの一連の行為によって、それまでの芸術を否定しました。同時に芸術史のエポックとなる新しい芸術を創造したのです。

否定は、新しいものを創造するために、必要な過程であり、条件であると言えるでしょう。破壊の申し子だったダダイズムは、ただ既存の芸術を否定しただけではありません。新しい芸術を生み出すために、我々の思考の上に居座る既得権益的な芸術の観念を追い払い、新しい空間へと突き進んだのです。

否定とは、肯定の反対であると一般論としては言えますが、それよりもっと積極的な意味、「肯定的な」力もあるわけです。

マグリットが自らの絵に、「これはパイプではない。」と書き添えたとき、そして画家の誘いに乗り、私たち鑑賞者が「これは何なのだ?」と問うとき、では、そこに何が生まれるのでしょうか。ここで一つの答えが出て、答えが一つに決まることを期待するのはいかがなものでしょう。一つの答えを期待することは、せっかくこの絵が用意した創造的な体験をあきらめることにつながります。マグリットは、この絵を鑑賞することで引き起こされる混乱に鑑賞者の一人ひとりが何かを、それまでの思い込みを払拭する何かを、考え始めることを狙っているのです。もちろん、そこで、マグリットが答えを用意していると思い込み、それを探そうとするほど野暮なことはないでしょう。

この絵画が生み出された時期、ダダイズムやシュルレアリスムが活躍した時期は、「言語」というものが哲学の俎上に、研究テーマとしてのぼった時期と重なります。1921年に出されたウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』やその影響下にある論理実証主義、分析哲学などはそれまでの言語の曖昧さを破ろうとしました。言語の曖昧さを破る目的、それは真なる知識を得ることでした。哲学史的な正確さで言うなら少し遡って、数学者フレーゲも含めることができる、この分析哲学のムーブメントは20世紀の哲学の一大潮流を決定しました。

この潮流が行き着いた先は、どこか。たとえば、言語というのはある意味でゲームのルールであり、絶対的基準などないということ。或いは文の正しさは何らかの対象を指し示しているかどうかでは決まらないということなどでした。マグリットの『イメージの裏切り』も、このような言語への挑戦と捉えられなくもないのです。この絵を鑑賞する人は、同時に考え始めます。そして、考えることを通して「言語とは何か」という20世紀の一大哲学論争に参戦しているのかもしれません。

大東文化大学法学研究所報第36号(P.53〜55)